2021年 09月 30日
日本経済新聞掲載 |
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晩夏のある日
東京日本経済新聞社本社から
夫を取材をしていただき
本日掲載していただいております。
テーマは
一つのことを継続している方々のご紹介
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長年に亘っての
『明治時代輸出された有田焼ー明治伊万里ー』の研究を続けている夫ですが
こうして『幻の明治伊万里』日本経済新聞社より発刊に続き再度
お取上げいただき感謝です。
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掲載記事全文
明治初期に輸出された伊万里焼を初めて目にしたときの衝撃は今も忘れられない。洗練された日本絵画がそのまま焼き物になっているようだった。江戸時代に作られた有田焼の一種、古伊万里が珍重される陰に、こんなにも素晴らしい製品があるのかと驚き、とりこになった。以来、30年以上にわたり、明治伊万里を研究し、海外から約2万点を里帰りさせてきた。
明治新政府は外貨獲得のため殖産興業を振興し、伊万里焼は重要な輸出品となった。西洋でのジャポニズムの流行も追い風となり、図案の改良が行われ、古代仏教美術をアレンジしたものなどが生み出され、品格を増していった。アールヌーヴォーなど西洋様式と融合した製品も生まれ、明治期固有の様式美が確立されていくことになる。
公家の装束や調度に用いられる有職文様や吉祥文様もちりばめられている。欧米に売り込むために、日本古来の文化を土台に図案を作成した。国家事業としてのエネルギーが凝縮されているように思える。
こうした動きの中心となったのが1875年に結成されたのが香蘭(こうらん)社だ。複数の窯元が集まった組織で、製品にはそれぞれの雅号や名字に加え共通の蘭マークが入れられた。日本で初の会社組織ともいわれている。
しかし、運営を巡り意見対立が起き、わずか4年後に陶工らが独立。そして生まれたのが、精磁会社だ。欧米向けに高級日用品の製作に取り組み、最新鋭の製陶機械を導入するなど、積極的に事業を展開した。
洋食器の製作は簡単なことではなかった。ゆがみが出ないよう、ある程度の厚みが必要だ。一方で日用品としての軽さと薄さも求められた。そうした困難を乗り越え、日本初の本格的ディナーセットも製作したが、わずか10年余りで初期の目的はゆがめられていった。核となる人物が次々と亡くなり、さらに巨額な負債も重なったためだ。
私は大学を卒業後、実家の有田焼の卸業の仕事についたが、いまいち張り合いのない日々を過ごしていた。そんなとき目にしたのが、明治伊万里だった。1985年、衝動的に、その色絵を求め米国に渡った。レンタカーでボストンを中心にアンティークショップを回ると、カップやソーサーなどがいくつも見つかった。異国の地で見つけた製品に胸が高鳴るとともに、当時の作り手の苦労が忍ばれた。
明治伊万里の優品磁器が注目されてこなかったのは、多くが輸出されたため、国内で目にする機会がほとんどなかったことがひとつの要因だ。こんなにも素晴らしい焼きものがあったことを多くの日本人に知ってもらいたい。海外に流出してしまった作品を見つけだし、里帰りさせることが生きがいとなった。
その後、古美術取引の中心、ロンドンに拠点を構えオークションだけでなく、世界各地の専門店を回った。そうして見つけたものの中には、1873年のウィーン万博に出品された「染付蒔絵(まきえ)富士山御所車文大花瓶」など歴史的にも貴重なものも含まれている。
現在の有田は、かつての勢いをなくしている。歌舞伎役者の十八代目中村勘三郎は「型があるから型破りができる。型が無ければ単なる形無し」と言った。今こそ、明治期の精神と技術を学び直すべきではないか。現在は、明治伊万里作品の復刻版の製作をプロデュースしている。技術が要求される難しい仕事だが、だからこそ身につく技術がある。人を育て先人たちの技術を後世に伝えていきたい。
(かもち・たかのり=ギャラリー経営)
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取材
by kadens
| 2021-09-30 23:57
| 明治伊万里




