2015年 08月 09日
長崎原爆記念日によせて |
今日は70回目の長崎原爆記念日です。
世界で唯一の原爆被爆国日本。
核戦争の悲惨さと世界平和を願い 長崎の被災者された方は今はすでに高齢になられていますが、
長崎が最後の被爆地となって欲しいと 訴えられています。
その心からの叫びそして祈りは届くのでしょうか・・・
撮影者であるジョー・オダネル氏は写真にこんな添え書きをしています。
ー撮影者 ジョー.オダネル氏の言葉ー
『この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の表情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。』
さらに、この本の冒頭で「読者の方々へ」としてこんな文を載せています。
『読者の方々へ
私ジョー・オダネルは、アメリカ海兵隊のカメラマンとして、1945年9月2日に佐世保に近い海岸に上陸した。空襲による被害状況を記録する命令を受け、23歳の軍曹だった私は、日本各地を歩くことになった。
私用のカメラも携え、日本の本土を佐世保、福岡から神戸まで、そしてもちろん広島、長崎も含めた50以上の市町村に足をのばした。カメラのレンズを通して、そのとき見た光景の数々が、のちに私の人生を変えてしまうことになろうとは知る由もなかった。
1946年3月、本国に帰還した私は、持ち帰ったネガをトランクに納め、二度と再び開くことはないだろうと思いながら蓋を閉じた。生きてゆくためにすべてを忘れてしまいたかったのだ。(中略)
この本は私の物語である。私自身の言葉で、私の撮影した写真で、戦争直後の日本で出会った人々の有り様を、荒涼とした被爆地を、被爆者たちの苦しみを語っている。胸をつかれるような写真を見ていると、私は否応なく、辛かった1945年当時に引き戻されてしまう。そして、私のこの物語を読んでくださった読者の方々には、なぜひとりの男が、戦争直後の日本行脚を忘却の彼方に押しやることができず、ネガをトランクから取り出してまとめたか、その心情を理解していただけると思う。』
オダネルさんは、カメラを片手に広島、長崎をさまよい放射能を浴びたのが原因で健康を害して退職、入退院を
繰り返し、平成19年(2007年)、奇しくも長崎に原爆投下された8月9日に86歳で亡くなられました。
この年、皇后陛下はお誕生日に際し
「この1年国内外で起きたことで、特に印象に残ったことをお聞かせください」との質問に、
この写真とカメラマンについて次のように述べられています。
ー美智子皇后様のお言葉ー
『今年(平成19年)8月の新聞に,原爆投下後の広島・長崎を撮影した米国の元従軍カメラマンの死亡記事と並び,作品の一つ,「焼き場に立つ少年」と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ幼い少年の写真が掲載されており,その姿が今も目に残っています。同じ地球上で今なお戦乱の続く地域の平和の回復を願うと共に,世界各地に生活する邦人の安全を祈らずにはいられません。』
さすが皇后様のお言葉です。
又私もこの写真が公開された時から
ずっと心に残り、見る度に胸が裂けそうです。
..........義兄の被爆.........
http://youtu.be/IWa61n3qf3c
http://youtu.be/uMYmwk4irFY
http://youtu.be/eDlM042An2g
学徒動員動員で長崎原爆の爆心地である
城山小学校にいた夫の兄は 16歳という短い人生に
幕を閉じました。
『天の川 わが子の星をさがしけり』
義父は長崎までその義兄を迎えに行き
その悲しみを詠んだのです。
義兄が通っていた伊万里商業では
義姉の熱い想いが通じ数年前から、 毎年慰霊祭が行われるようになりました。
ー上記のユーチューブー
伊万里ケーブルテレビ様が そのいきさつを紹介いただきましたが、
今は亡き義姉が癌との闘いの中 親を 兄を想う気持ちそして
戦争の悲惨さを伝えるために奔走されていたこと
そして亡き義両親が毎年 原爆記念日が近ずくと悲しい面持ちになられていたことを
想い出される原爆記念日です。
二度と起きてはならない戦争。
私も、今日は原爆犠牲者の皆さまに黙祷を捧げ、
恒久平和の実現を祈りつつ黙禱を捧げました。
今日本は大変な岐路に立っています。
平和っていったいなんでしょうか・・・
人の命を考える時 私は原発再稼動に対しては反対ですが
憲法第9条・・・今 こんな時に何故一番大切なこの憲法を換えないといけないのでしょうか‼️
世界で唯一の原爆被爆国日本。
核戦争の悲惨さと世界平和を願い 長崎の被災者された方は今はすでに高齢になられていますが、
長崎が最後の被爆地となって欲しいと 訴えられています。
その心からの叫びそして祈りは届くのでしょうか・・・
撮影者であるジョー・オダネル氏は写真にこんな添え書きをしています。
ー撮影者 ジョー.オダネル氏の言葉ー
『この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の表情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。』
さらに、この本の冒頭で「読者の方々へ」としてこんな文を載せています。
『読者の方々へ
私ジョー・オダネルは、アメリカ海兵隊のカメラマンとして、1945年9月2日に佐世保に近い海岸に上陸した。空襲による被害状況を記録する命令を受け、23歳の軍曹だった私は、日本各地を歩くことになった。
私用のカメラも携え、日本の本土を佐世保、福岡から神戸まで、そしてもちろん広島、長崎も含めた50以上の市町村に足をのばした。カメラのレンズを通して、そのとき見た光景の数々が、のちに私の人生を変えてしまうことになろうとは知る由もなかった。
1946年3月、本国に帰還した私は、持ち帰ったネガをトランクに納め、二度と再び開くことはないだろうと思いながら蓋を閉じた。生きてゆくためにすべてを忘れてしまいたかったのだ。(中略)
この本は私の物語である。私自身の言葉で、私の撮影した写真で、戦争直後の日本で出会った人々の有り様を、荒涼とした被爆地を、被爆者たちの苦しみを語っている。胸をつかれるような写真を見ていると、私は否応なく、辛かった1945年当時に引き戻されてしまう。そして、私のこの物語を読んでくださった読者の方々には、なぜひとりの男が、戦争直後の日本行脚を忘却の彼方に押しやることができず、ネガをトランクから取り出してまとめたか、その心情を理解していただけると思う。』
オダネルさんは、カメラを片手に広島、長崎をさまよい放射能を浴びたのが原因で健康を害して退職、入退院を
繰り返し、平成19年(2007年)、奇しくも長崎に原爆投下された8月9日に86歳で亡くなられました。
この年、皇后陛下はお誕生日に際し
「この1年国内外で起きたことで、特に印象に残ったことをお聞かせください」との質問に、
この写真とカメラマンについて次のように述べられています。
ー美智子皇后様のお言葉ー
『今年(平成19年)8月の新聞に,原爆投下後の広島・長崎を撮影した米国の元従軍カメラマンの死亡記事と並び,作品の一つ,「焼き場に立つ少年」と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ幼い少年の写真が掲載されており,その姿が今も目に残っています。同じ地球上で今なお戦乱の続く地域の平和の回復を願うと共に,世界各地に生活する邦人の安全を祈らずにはいられません。』
さすが皇后様のお言葉です。
又私もこの写真が公開された時から
ずっと心に残り、見る度に胸が裂けそうです。
..........義兄の被爆.........
http://youtu.be/IWa61n3qf3c
http://youtu.be/uMYmwk4irFY
http://youtu.be/eDlM042An2g
学徒動員動員で長崎原爆の爆心地である
城山小学校にいた夫の兄は 16歳という短い人生に
幕を閉じました。
『天の川 わが子の星をさがしけり』
義父は長崎までその義兄を迎えに行き
その悲しみを詠んだのです。
義兄が通っていた伊万里商業では
義姉の熱い想いが通じ数年前から、 毎年慰霊祭が行われるようになりました。
ー上記のユーチューブー
伊万里ケーブルテレビ様が そのいきさつを紹介いただきましたが、
今は亡き義姉が癌との闘いの中 親を 兄を想う気持ちそして
戦争の悲惨さを伝えるために奔走されていたこと
そして亡き義両親が毎年 原爆記念日が近ずくと悲しい面持ちになられていたことを
想い出される原爆記念日です。
二度と起きてはならない戦争。
私も、今日は原爆犠牲者の皆さまに黙祷を捧げ、
恒久平和の実現を祈りつつ黙禱を捧げました。
今日本は大変な岐路に立っています。
平和っていったいなんでしょうか・・・
人の命を考える時 私は原発再稼動に対しては反対ですが
憲法第9条・・・今 こんな時に何故一番大切なこの憲法を換えないといけないのでしょうか‼️
by kadens
| 2015-08-09 13:40
| 響き